第2話:もうひとつの世界
土曜日の朝、健太は頭痛とともに目を覚ました。昨晩も終電まで会社に残り、週末出勤の必要がないことに安堵しながらも、すでに心は月曜日の仕事を恐れていた。
「ああ、休みなのに…」
彼は枕に顔を埋め、もう少し眠ろうとしたが、頭の中は次週のプロジェクトスケジュールでいっぱいだった。結局、ベッドから抜け出し、コーヒーを淹れた。冷蔵庫には消費期限の切れたパック惣菜と、半分残ったビールしかなかった。
「洗濯して買い物に行くか…」
いつもの休日のルーティンをこなすだけの日になると思っていた。そう思っていた。
「いつもと違う場所で気分転換をしてみよう」
そう思い立ち、健太はいつも行くスーパーではなく、駅前の新しいショッピングモールに向かった。買い物を終えた後、何となく入った2階のカフェ「ブルースカイ」。
店内は明るく、大きな窓から陽光が差し込んでいた。健太は窓際の席に座り、ふと周りを見回した。
「……なんだろう、この違和感」
彼が勤める会社の雰囲気とはあまりにも違う光景がそこにあった。カフェの中で、10人ほどの男女がノートパソコンを広げて作業していた。スーツ姿ではなく、カジュアルな服装。緊張した面持ちでもなく、リラックスした表情で仕事をしている。時々、隣の人と談笑したり、コーヒーを飲みながらスマホをチェックしたりしている。
健太は思わず目を凝らした。彼らは…楽しそうに仕事をしているように見える。
「お待たせしました。カフェラテとチーズケーキです」
ウェイトレスの声に我に返り、健太は注文したものを受け取った。彼はコーヒーをすすりながら、再び周囲の人々に目を向けた。
「あのさ、この資料ちょっと見てくれない?クライアントが求めてる方向とズレてないか確認したくて」
カフェの中央のテーブルで、20代後半くらいの女性が隣の男性に画面を見せていた。健太の会社なら、こんな相談はきっと「自分で考えろ」と一蹴されるだろう。でも、その男性は笑顔で画面を覗き込み、親身になってアドバイスしている。
健太はスマホを取り出し、先日電車で見た「デジタルノマド」について検索してみた。
「フリーランス」「リモートワーク」「ノマドワーカー」
次々と新しい言葉と概念が彼の画面に現れた。「場所や時間に縛られない働き方」「自分の才能や情熱を活かしたビジネス」「ワークライフバランスの実現」。健太にとって、それはまるで異世界の言葉のようだった。
「私、来月からタイに行くんだ。バンコクのコワーキングスペースが安くて、日本人コミュニティもあるらしいよ」
女性の声が聞こえてきた。健太は思わず耳を傾けた。
「いいなぁ。僕はまだ海外は怖いから、国内をノマドしてるだけだけど」男性が答える。「でも先月の沖縄のビーチでコードを書いてたときは、『これが現実なのか』って感動したよ」
健太は思わず苦笑した。「沖縄のビーチでコードを書く」なんて、彼には夢のような話だ。窓のない部屋で徹夜作業を強いられる日々と、あまりにも対照的だった。
「でも、これが現実なんだ」と健太は思った。目の前で実際に起きていることなのだから。
チーズケーキを一口食べながら、健太は考え込んだ。彼らはどうやってこんな働き方を手に入れたのだろう?特別な才能があるのか?それとも裕福な家庭の出身なのか?
好奇心に負け、健太はカフェの中央にいた女性に近づいてみることにした。
「すみません…」健太は緊張しながら声をかけた。「あの、失礼かもしれませんが…フリーランスとして働いていらっしゃるんですか?」
女性は少し驚いた様子だったが、すぐに笑顔になった。
「そうですよ。私はWebデザイナーをしています。鈴木と言います」
「佐藤です。あの…僕は会社員なんですが、フリーランスの働き方に興味があって…」
健太は自分でも信じられないほど率直に話していた。普段の彼なら、見知らぬ人に声をかけることさえなかっただろう。
「ああ、そうなんですね!」鈴木さんは嬉しそうに言った。「もしよかったら座りませんか?ちょうど休憩中だったので」
緊張しながらも、健太は勧められた席に座った。隣の男性も笑顔で挨拶してきた。
「田中です。プログラマーをしています」
「あの…皆さんはどうやってフリーランスになったんですか?」健太は恐る恐る聞いた。
鈴木さんは少し考えてから答えた。「私はデザイン会社に5年勤めた後、独立しました。最初は会社と並行して副業から始めたんですよ。田中さんは?」
「僕は新卒からWeb系企業に入ったけど、3年で退職してフリーになりました」田中さんが答える。「最初は本当に大変でしたけどね」
健太は驚いた。彼らは特別な人たちではない。自分と同じように会社で働いていた普通の人たちだった。
「でも、仕事はどうやって見つけるんですか?収入は安定しないんじゃ…」
健太の素朴な質問に、二人は優しく笑った。
「最初はクラウドソーシングサイトから始めて、徐々に直接契約のクライアントを増やしていきました」と鈴木さん。「確かに収入は変動しますが、複数の収入源を持つことでリスクを分散できますよ」
話を聞くほどに、健太の胸の内に小さな火が灯るのを感じた。「もしかしたら…自分にも…」
しかし、すぐに現実に引き戻された。「でも、僕にはスキルがありません。プログラミングはできますが、会社のシステム開発しか経験がなくて…」
田中さんが首を横に振った。「そんなことないですよ。佐藤さんはもう会社で5年働いているんですよね?その経験自体が価値あるものです。それに、必要なスキルは働きながら身につけていけばいいんです」
「本当ですか…?」
「ええ。私も最初からデザインのプロだったわけじゃありません」と鈴木さんも同意した。「大切なのは第一歩を踏み出す勇気です」
健太は彼らの言葉に静かに頷いた。頭の中では「でも自分には無理だ」という声と「もしかしたら可能かもしれない」という声が交錯していた。
「この名刺を受け取ってください」鈴木さんが小さな名刺を差し出した。「毎月第一土曜日にこのカフェでフリーランス交流会をやっているんです。興味があればぜひ来てください」
「ありがとうございます」健太は恐る恐る名刺を受け取った。
帰り道、健太は空を見上げた。久しぶりに見る青空だった。「窓のない部屋」では決して見ることのできない景色。
アパートに戻った健太は、壁に貼られた古い付箋の横に、新しい付箋を一枚貼った。
「フリーランス交流会に参加する」
彼はそれを見つめながら、鈴木さんの言葉を思い出した。「大切なのは第一歩を踏み出す勇気です」
その夜、健太は久しぶりに深い眠りについた。夢の中で彼は、青い空の下、ノートパソコンを開いていた。
次回、第3話「深夜のきっかけ」 平穏な日常に戻った健太だったが、ある夜の過酷な残業で体調を崩してしまう。熱に浮かされながらネットサーフィンをしていた彼が出会ったのは、かつて自分と同じ境遇から抜け出した男性のブログだった。その内容が、健太の心に強く響く—。
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