第1話:窓のない部屋
午前2時13分。
蛍光灯の白い光がオフィスに満ちていた。
佐藤健太(30)はモニターから目を離し、首を回して軽くストレッチをした。肩と首の筋肉が悲鳴を上げるように痛みを訴える。それでも、彼は背筋を伸ばし直し、キーボードに手を戻した。
「さっさと終わらせなきゃ…」
健太が所属する大手IT企業の開発部門、通称「地下室」は文字通り窓のない部屋だった。実際に地下にあるわけではない。むしろ高層ビルの15階という好立地にある。しかし、部署は建物の中心部に位置しており、外の景色を見られる窓は一つもなかった。
彼は自分のデスクの時計を確認した。あと3時間で始発の電車が動きだす。「終電を逃したからもう帰れない」が常態化してから、どれくらいの時間が経っただろう。
健太はコードを打ち続けた。来週、クライアントに納品予定のシステムに致命的なバグが見つかり、その修正作業が彼の肩にのしかかっていた。上司の村岡からは「君が担当したモジュールだからな、責任持って直せよ」と言われた。本当は設計段階からの問題だと健太は気づいていたが、それを指摘する勇気はなかった。
「終わった…」
ようやく最後のテストケースが通り、健太は肩を落とした。たった今、彼の人生から15時間が消えた。それでも彼は明日(というより今日の)朝、9時には出社しなければならない。
ロッカーからコートを取り出し、会社を出る。真冬の冷たい空気が彼の頬を刺した。空は暗く、星もない。
「健太くん、このデータ集計、ちょっと確認してくれるかな?」
午前9時50分。村岡がコーヒーを片手に持ち、健太のデスクに資料を置いた。健太は瞼が重く、コンビニで買ったエナジードリンクを一気に飲み干した。
「はい、確認します」
彼は自動応答のように答えた。実はバグ修正のレポートをまとめようとしていたところだったが、それはまた後回しになる。常にそうだった。重要な仕事を片付けようとすると、別の「緊急の仕事」が舞い込んでくる。
午後3時、ようやく昼食を取る時間ができた。会社の地下コンビニでサンドイッチを買い、デスクで食べる。窓際の休憩スペースは営業部の「特権」だった。
「佐藤君!例の修正、クライアントから『想定していた動作と違う』って連絡あったぞ!」
サンドイッチを半分も食べていないうちに、村岡の声が聞こえた。健太は胃が沈むような感覚を覚えながら、残りのサンドイッチをゴミ箱に捨てた。
「仕様書には確かにこう書いてあるんですが…」
「クライアントが求めているのはそういうことじゃない!空気読めよ!今から急いで直せ!」
村岡はそう言い残して立ち去った。健太は深いため息をついた。この会社に入社して5年目。毎日がこの繰り返しだった。
午後11時30分。今日は運良く終電に間に合いそうだ。健太は疲れ切った体を電車の座席に預けた。目の前のサラリーマンが雑誌を読んでいる。
「デジタルノマド:会社を捨て、世界を旅しながら稼ぐ新時代の働き方」
表紙の文字が健太の目に飛び込んできた。砂浜でノートパソコンを開き、リラックスした表情で仕事をしている男性の写真が載っている。
「嘘くさい」と健太は思った。そんな生活、ドラマの中だけの話だろう。でも、彼の目はその雑誌から離れなかった。
「次は新宿、新宿です」
アナウンスに我に返り、健太は自分の駅でないことに気づいて慌てて立ち上がった。ホームに降り立った彼は、改札を通過する人々の中で、雑誌を読んでいた男性の背中を見失った。
ワンルームのアパートに帰り着いた健太は、冷蔵庫からビールを取り出し、一気に飲み干した。部屋の壁には何枚かの付箋が貼られている。
「資格の勉強をする」 「英語を学び直す」 「転職活動を始める」
どれも1年以上前に貼ったものだ。一つも手をつけられていない。
健太はベッドに倒れ込むと、スマホを取り出した。何気なくニュースをスクロールするうち、アプリが勝手に広告を表示した。
「あなたもフリーランスになれる!初心者向けWebライティング講座」
健太は広告をすぐに閉じた。しかし、電車で見た雑誌の表紙と重なって、その言葉が彼の頭に残った。
「窓のない部屋」から抜け出す方法があるのだろうか。
彼はそんなことを考えながら、また明日に備えて目を閉じた。目覚ましが鳴るまであと4時間半。彼の心と体は悲鳴を上げていたが、その声を聞く余裕は彼にはなかった。
まだ。
健太は知らなかった。あの夜、彼の人生の歯車がほんの少しだけ、回転方向を変え始めたことを。「窓のない部屋」から抜け出す長い旅の、第一歩がすでに始まっていたことを。
次回、第2話「もうひとつの世界」 土曜日、たまたま入ったカフェで健太が目にしたのは、まるで別世界の光景だった。ノートパソコンを開いて楽しそうに仕事をする人々。彼らはどうやってあんな自由な働き方を手に入れたのか?そして健太の心に芽生えた小さな「もしかしたら…」という思い。
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