第4話:内なる葛藤
健太は深夜、自宅のキッチンテーブルに向かって座っていた。手元には一枚の紙。中村のブログで勧められていた「自分のスキルと強み」を書き出すための用紙だ。
ペンを握る手が止まっている。
「僕のスキル…」
彼は考え込んだ。5年間のSE経験。Java、Python、データベース設計。基本的なシステム開発のスキルセット。しかし、それ以外に何があるだろう?
「特別なことなんて何もできない」
自己否定の声が彼の頭の中で響く。会社では「使える駒」として重宝されているが、際立った才能があるわけではない。ただコツコツと言われた通りに仕事をこなしているだけだ。
しかし、中村のブログにはこうあった。 「あなたが当たり前だと思っているスキルや知識が、他の人にとっては貴重な価値を持っています。自分を過小評価せず、客観的に書き出してみましょう」
健太は深呼吸し、もう一度ペンを持った。
「プログラミングスキル」「システム設計の知識」「ドキュメント作成能力」
書き出していくうちに、彼は気づいた。実は自分は技術文書を作るのが得意だった。同僚たちが嫌がる仕様書や操作マニュアルの作成を、いつも健太が担当していた。複雑な技術を分かりやすく説明することに、無意識のうちに長けていたのだ。
「これは…Webライティングに活かせるかも」
健太は少し希望を感じた。ブログの中村も、SEからテクニカルライターへと転身していた。同じ道を辿ることができるかもしれない。
「佐藤!何やってるんだ!」
翌日のオフィス。村岡部長の声が「地下室」全体に響き渡った。健太は慌ててモニターから顔を上げた。
「この仕様書、全然クライアントの求めてるものになってないじゃないか!」
村岡は怒りに震えながら、健太のデスクに書類を叩きつけた。健太は混乱した。昨夜も遅くまで残業して仕上げた資料だ。確かにクライアントの要望に沿っているはずだった。
「すみません、どこが問題なのでしょうか…」
「どこもかしこも!クライアントが求めているのはもっとシンプルな説明だ!専門用語だらけで、経営層が見ても理解できないものになっている!」
健太は資料を見直した。確かに技術的な詳細を詰め込みすぎていた。クライアントの経営層向けの資料なのに、ITの専門家向けの内容になっていた。
「今日中に書き直せ!このままじゃプロジェクト全体に影響が出る!」
村岡部長は他の社員たちの視線を集めながら立ち去った。健太は顔が熱くなるのを感じた。全員が彼を見ている。失敗を、無能さを見透かすような視線。
健太は頭を下げ、無言で修正作業に取りかかった。心の中では怒りと恥、そして絶望感が渦巻いていた。「なぜもっと早く気づけなかったのか」「なぜ確認を怠ったのか」自分を責める声が頭の中で響く。
その日、健太は深夜まで残業し、資料を一から書き直した。技術的な正確さを保ちながらも、非専門家にもわかりやすい言葉で説明するよう心がけた。これは彼が本来得意としていたはずのことだ。しかし、疲労と焦りでその力も発揮できなかった。
午前2時、ようやく修正版が完成した。健太は疲れ果てた体を引きずるようにして帰路についた。
「失敗したのは、僕が不器用だからだ」
帰宅した健太は、真っ暗な部屋でベッドに倒れ込んだ。「こんな僕がフリーランスなんて、笑わせる」悲観的な思考が彼を襲う。「会社でさえうまくやれないのに、一人でやっていけるわけがない」
しかし、その瞬間、彼の脳裏に別の考えが閃いた。
「待てよ…」
彼はスマホのブラウザを開き、中村のブログを探した。そこには以前読んだ記事があった。
「失敗から学ぶ:私がフリーランス初年度につまづいた5つのこと」
健太は記事を読み返した。中村も同じように失敗を重ねていた。クライアントの意図を取り違えたこと、締切に間に合わなかったこと、自分のスキルに自信を失ったこと…。どれも健太の経験と重なる。
「失敗は成長の証です。失敗しない人間は挑戦していない人間です」
その言葉が健太の心に染み入った。そして、もう一つ気づいたことがあった。
「村岡部長は僕を公衆の面前で叱った…でも、フリーランスなら…」
健太は考え続けた。フリーランスにもクライアントからの叱責はあるだろう。しかし、対等な関係性の中での批判と、上下関係の中での屈辱は違う。
彼はベッドから起き上がり、デスクの引き出しから一冊のノートを取り出した。そこには彼の給与明細の記録があった。残業代を含めて手取り30万円程度。決して悪くない額だが、健康と自由を犠牲にした対価としては…。
「このまま10年後、20年後、僕はどうなっているんだろう」
窓のない部屋で、若さも健康も失い、ただ時給を稼ぐ歯車になっている姿が目に浮かんだ。
健太は身震いした。それから、スマホを手に取り、中村への連絡を試みた。ブログには問い合わせフォームがあった。彼は迷わず入力し始めた。
「はじめまして、現役SEの佐藤と申します。あなたのブログに大きな影響を受けています。実は私も『窓のない部屋』から脱出することを考え始めました。もし可能であれば、いくつか質問させていただきたいのですが…」
送信ボタンを押す前に、健太は一瞬ためらった。これは単なる衝動だろうか?明日になれば忘れているような一時的な感情なのか?
しかし、彼の脳裏には今日の屈辱的な光景がよみがえった。そして、カフェで見た自由に働く人々の姿も。青い空の下でノートパソコンを開く自分の姿も。
健太は送信ボタンを押した。
「佐藤さん、お問い合わせありがとうございます…」
翌朝、健太が通勤電車の中でスマホを確認すると、中村からの返信が届いていた。予想以上に早い返事に、彼は驚いた。
「…私も最初は不安でいっぱいでした。しかし、『変化への恐怖』と『このまま変わらないことへの恐怖』、どちらが大きいかを自問自答したとき、答えは明確でした。」
健太は息を呑んだ。その言葉が彼の心に突き刺さった。
「変化への恐怖」—確かに彼は恐れていた。収入が不安定になること、失敗すること、社会的な信用を失うこと。
「このまま変わらないことへの恐怖」—それは日々増大していた。健康を損ない続けること、自分の時間を持てないこと、10年後も20年後も同じ「窓のない部屋」にいること。
駅に着くまでの間、健太は中村のメールを何度も読み返した。その中には励ましと具体的なアドバイスがあった。
「まずは副業から始めることをお勧めします。退職する前に、小さな実績と自信を積み重ねていきましょう。もし良ければ、初心者向けのオンライン講座を紹介します。私も受講した経験があり、非常に役立ちました」
メールの最後には「技術者向けWebライティング講座」のリンクが添えられていた。月額1万2千円。決して安くはないが、彼の給与からすれば工面できない額ではない。
会社に着くと、健太はデスクに座る前に洗面所に向かった。鏡の中の自分は憔悴していた。青白い顔、血走った目、肩を落とした姿勢。これが30歳の自分の姿なのか。
「このまま変わらないことへの恐怖…」
彼はその言葉を反芻した。そして、ポケットからスマホを取り出し、中村が紹介した講座のページを開いた。次回開講は来週から。申込締切は明日だった。
健太の指がスマホの画面の上で震えていた。
購入ボタンをタップするまでの数秒間、彼の心の中で、これまでの人生、そしてこれからの可能性についての思いが交錯した。「安定」と「自由」、「恐怖」と「希望」。その戦いは彼の内側で激しく続いていた。
「佐藤、おはよう。昨日の資料、直したのか?」
村岡部長の声に、健太は我に返った。彼はスマホをポケットにしまい、会釈した。「はい、昨夜完成させました」
「よし、すぐに確認する」
村岡は立ち去り、健太はデスクに向かった。しかし、彼の思考は講座のページに残っていた。
その日、健太は仕事の合間に何度もスマホを取り出しては講座のページを見つめた。購入するか迷っていたわけではない。彼の心はすでに決まっていた。ただ、その決断が意味することの重さを噛みしめていたのだ。
それは単なる講座への申し込みではなく、新しい人生への第一歩だった。
夜、アパートに戻った健太は、深呼吸してからスマホを取り出した。講座のページを開き、迷いなくクレジットカード情報を入力し、購入ボタンを押した。
「ご購入ありがとうございます。講座開始日の案内メールを送信しました」
画面に表示されたメッセージを見て、健太は胸の高鳴りを感じた。恐怖も確かにあった。しかし、それ以上に彼の心を満たしていたのは、久しく忘れていた感情—期待と希望だった。
「これが…僕の選んだ道」
健太は深くため息をついた。それは不安からのため息ではなく、長い間抱えていた何かが解放されたような、清々しいものだった。
彼はスマホを置き、窓を開けた。夜空には星が瞬いていた。「窓のない部屋」の外には、広い世界が広がっている。彼はようやくその扉を、ほんの少しだけ開いたのだ。
次回、第5話「最初の一歩」 健太がWebライティング講座を受講し始める。新しい知識への興奮と、隠れて学ぶ緊張感。そして休日、彼は人生で初めて「自己投資」としてある決断をする—。
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