第3話:深夜のきっかけ
「佐藤、このプロジェクト、君が最後まで見てくれ」
月曜の朝、村岡部長からの一言で、健太の1週間の運命が決まった。A社向けの新システム導入が大幅に遅れており、週末の納期に間に合わせるために誰かが犠牲にならなければならない。その「誰か」は、いつも通り健太だった。
カフェで出会ったフリーランスたちとの会話は、まるで夢のような出来事だった。日常に戻った健太は、再び「窓のない部屋」に閉じ込められていた。
「わかりました」
彼は機械的に返事をした。断る選択肢などなかった。
水曜日の夜、健太はデスクで咳き込んだ。喉が痛く、頭が重い。昨夜も午前3時まで残業し、たった3時間の睡眠で出社していた。体は悲鳴を上げていた。
「大丈夫ですか?」隣の席の後輩が心配そうに声をかけた。
「ああ…なんとか」健太は答えたが、彼自身わかっていた。これは「大丈夫」ではない。
「佐藤君、進捗はどうだ?」村岡部長が近づいてきた。健太は慌てて咳を抑え、モニターの画面を指さした。
「あと二日で完成します。今、最後のモジュールを調整中です」
村岡は満足げに頷き、「頼むぞ」と言い残して立ち去った。健太はまた咳き込んだ。体が熱い。明らかに発熱している。
「先輩、病院行ったほうがいいっすよ」後輩が小声で言った。
健太は苦笑した。「行ってる時間がないんだ」
午後11時、オフィスはほぼ無人になっていた。同じプロジェクトの仲間たちも、明日に備えて帰宅した。健太だけが残されていた。彼はコードを書こうとしたが、頭が回らない。熱で思考が鈍り、何度も同じミスを繰り返していた。
「このままじゃ逆に時間の無駄だ…」
ついに彼は諦め、帰宅することにした。タクシーを拾い、アパートまで送ってもらった。玄関のドアを開け、靴も脱がずに床に倒れ込みそうになるのを堪えた。
「薬…薬を飲まないと」
常備薬を飲み、熱を測ると38.5度。健太は重い体をベッドに横たえた。頭がぼんやりとしてくる。明日の朝までに熱が下がらなければ、初めて会社を休むことになるかもしれない。そう思うと不安で胸が締め付けられた。
「休んじゃいけない…プロジェクトが…」
しかし体は言うことを聞かなかった。健太は半分意識がもうろうとする中、スマホを手に取った。ただ横になっているだけでは不安で仕方がなかった。
メールをチェックし、何の意味もなくSNSをスクロールする。熱のせいで集中できず、ページからページへと無目的に移動していった。そして偶然、彼はあるブログ記事に辿り着いた。
「『窓のない部屋』から脱出した元SEの告白」
タイトルが彼の目を引いた。健太は体を起こし、興味を持って読み始めた。
「私はかつてIT企業のSEとして7年間働いていました。毎日終電、時には終電を逃して会社に泊まることも珍しくありませんでした。健康を損ね、人間関係も希薄になり、ただ生きているだけの日々…」
健太は自分の姿を見ているかのような錯覚に陥った。ブログの筆者・中村という男性は、かつて健太と同じような生活を送っていた。徹夜の連続、体調不良、将来への不安、そして何より「このままでいいのだろうか」という慢性的な自問自答。
「この記事があなたに何かのきっかけを与えられれば幸いです。人生は一度きり。『窓のない部屋』で終わらせる必要はありません。」
記事の最後の言葉が、健太の胸に突き刺さった。そして彼は、記事の続きを読み漁った。
中村は5年前に会社を辞め、独学でWebライティングを学んだという。最初は苦労したが、専門性を活かした技術記事を書くことで徐々に仕事を得るようになった。今では企業のテクニカルライターとして安定した収入を得ながら、好きな場所で働いているという。
「私のWebライティング独立ロードマップ」 「未経験からのフリーランス:最初の1年でやるべきこと」 「SEスキルを活かした記事の書き方」
健太は熱のうねりと闘いながら、記事を次々と読み進めた。そこには具体的な道筋が示されていた。未経験からどうやってスキルを身につけるか、最初の仕事をどこで探すか、専門性をどう活かすか…。
「私の最初の仕事は、たった3000円の小さな記事でした。でも、その一つの仕事が次の仕事につながり、さらに次へと…」
健太は時間が経つのも忘れて読み続けた。中村のブログには、失敗談や挫折の経験も正直に書かれていた。「最初の3ヶ月は収入ゼロに近かった」「クライアントとのトラブルで自信を失いかけた」—そんな話も包み隠さず記されていた。
しかし、それらの困難を乗り越えて今がある。その姿が、健太には眩しく思えた。
「記事が気に入ったらニュースレターに登録してください。フリーランスのためのヒントを毎週お届けします」
健太は迷わず登録フォームに自分のメールアドレスを入力した。送信ボタンを押した瞬間、彼の心に小さな変化が起きた。これは単なる興味本位ではない。彼は本気でこの道を考えているのだと、自分自身に気づかされた。
「僕にもできるかもしれない…」
健太は熱に浮かされながらも、初めて明確なビジョンを持った。中村のような生き方。窓のない部屋から抜け出し、自分の意志で働く生き方。それは夢物語ではなく、実在する選択肢なのだと。
やがて彼は疲れ果て、スマホを握ったまま眠りについた。
翌朝、健太は目覚ましの音で飛び起きた。時計は午前7時を指している。慌てて体温計を口に入れると、37.2度。まだ平熱には戻っていないが、昨夜よりは良くなっていた。
「会社…行かなきゃ」
彼は弱った体で立ち上がり、準備を始めた。スマホを見ると、中村のブログからの最初のニュースレターが届いていた。
「フリーランスへの第一歩:今日からできる5つのこと」
健太はそれを開き、急いで目を通した。そこには明確なステップが書かれていた。
- 自分のスキルと強みを書き出す
- 一日30分でもスキルアップの時間を作る
- クラウドソーシングサイトに登録する
- ポートフォリオの準備を始める
- 同じ志を持つ仲間を見つける
「今夜、帰ったらやってみよう」健太は心に決めた。
オフィスに着くと、村岡部長が心配そうに声をかけてきた。「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
健太は小さく頷いた。「少し風邪気味ですが、大丈夫です。プロジェクトは予定通り進めます」
村岡は彼の肩を軽く叩いた。「無理するなよ。…とは言っても、納期は死守してくれ」
健太は苦笑した。これが彼の現実だ。しかし、もう一つの現実も見えている。中村のような生き方へと続く道。その道は険しいかもしれないが、確かに存在している。
彼はデスクに座り、モニターを起動した。「窓のない部屋」の中で、今日も一日が始まる。しかし、健太の心の中には小さな窓が開いていた。そこから覗く景色は、まだぼんやりとしているが、確かに青い空が見えていた。
次回、第4話「内なる葛藤」 健太はフリーランスへの第一歩として情報収集を始めるが、会社での大きな失敗をきっかけに自分の未来について真剣に考えざるを得なくなる。安定と自由、恐怖と希望の間で揺れ動く健太の心。そして彼が下す決断とは—。
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